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金メダリスト 斉藤仁さん

記事、写真はスポーツ報知より引用しております。

【柔道】斉藤仁さん死す!54歳、肝内胆管がん 最後は「骨と皮だけに」
2015年1月21日6時0分 スポーツ報知

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1984年ロサンゼルス、88年ソウルの柔道男子95キロ超級で五輪2大会連続金メダルを獲得した斉藤仁さんが20日午前2時56分、がん性胸膜炎のため東大阪市内の病院で死去した。54歳だった。89年の引退後は男子代表監督を務め、12年11月から全日本連盟(全柔連)強化委員長に就任。16年リオ、20年東京五輪に向け手腕を振るっていた。通夜は22日午後7時から大阪市平野区瓜破東4の1の83、仏光殿で。葬儀・告別式は密葬で、喪主は妻・三恵子(みえこ)さん。

 病魔との壮絶な闘いに終止符が打たれた。斉藤さんは20日未明、妻と2人の子息に見守られ、病院で息を引き取った。13年12月に肝内胆管がんが発覚して1年あまり。最期は安らかだったという。

 現役時代はロサンゼルス五輪無差別級金メダルの山下泰裕さん(57)のライバルとして活躍。ロス、ソウル五輪95キロ超級で、日本柔道界初の連覇を果たした。180センチ、150キロ超の巨体ながら前回り宙返りができ、逆立ちで歩けるなど並外れた筋力とバネの持ち主。右膝の半月板と靭帯(じんたい)を痛めながら臨んだソウル五輪では、金メダルゼロの危機の中、最終日に優勝。日本柔道を救い、表彰台で男泣きした。

 当時、監督を務めた上村春樹・講道館館長は「五輪2か月前は走れなくて、自分で膝にハリを打っていた。『ほかの選手に代えてくれ』と言われたが、『お前じゃなくちゃダメなんだ』と言った。最終日のプレッシャーは普通じゃない。斉藤じゃなきゃ勝てなかった」と振り返った。

 引退後は国士舘大監督やアテネ、北京五輪の全日本男子監督を務め、アテネは鈴木桂治、北京は石井慧と国士舘大の教え子を重量級の金メダリストに育てた。男子が史上初の金メダルゼロに終わったロンドン五輪後の12年11月に全柔連強化委員長に就任。女子代表への暴力指導など不祥事が続く中、必死で現場を支えた。

 胆管がん発覚後、やせ衰えたことを「糖尿病の食事療法でやせすぎた」と笑い飛ばしていた。周囲に療養を勧められたが、昨年8月の世界柔道(ロシア)、9月の仁川アジア大会に帯同。11月までに20年東京五輪までの6年計画の強化方針を策定した。同13日のジュニア合宿で「東京五輪までまだ6年あると思うな。6年しかない。この世代の戦いに勝ち抜いたものが東京五輪の畳の上に立てる」と選手に鬼気迫るゲキをとばしたのが公の場での最後の姿。命を削り、職責を果たした。

 中学1年生の次男・立(たつる)くんは昨年度の小学生王者で、将来を嘱望されている。今月17日に病院を見舞った上村氏は「骨と皮だけになっていて、涙が出た。立くんの指導をしたかっただろうし、やり残したことがいっぱいあったはず」と残念がった。日本柔道界を支えた巨星が、逝ってしまった。

 ◆ソウル五輪柔道男子95キロ超級決勝VTR 優勝候補のラシュワン(エジプト)、趙容徹(韓国)ら強敵を下して進出した斉藤は、ストール(東ドイツ)を攻め立てた。ともにポイントはなかったが、優勢勝ちで同大会の日本人4人目の金メダルを獲得。ロサンゼルス五輪に続き、2大会連続金メダルの偉業達成となった。

 ◆肝内胆管がん 肝臓と十二指腸の間にある胆汁の排出路を胆管と呼ぶ。そのうち肝臓の内部にある肝内胆管にできた悪性腫瘍のこと。発症初期は自覚症状が少なく、早期発見が難しい。

 ◆斉藤 仁(さいとう・ひとし)1961年1月2日、青森市生まれ。1979年、国士舘大に入学。同大学体育学部助手となった83年のモスクワ世界柔道で無差別級優勝。84年ロス五輪95キロ超級金メダル獲得。88年全日本選手権で初優勝すると、同年のソウル五輪95キロ超級で金メダル。89年の引退後は国士舘大の教授となり、04年アテネ五輪、08年北京五輪は男子監督。10年から強化副委員長、12年から強化委員長。現役時代は180センチ、155キロ。家族は妻と2男。〜引用終わり〜

とても、偉大な選手でした
ロス五輪、ソウル五輪でご活躍されたとき
テレビで大応援したことを覚えています。

これからの柔道界に欠かせなかった方。
本当に残念です。

腸内環境は大事です。